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心が安心できる所
結局人は、自分の本心が安心できるところに出会うまでさ迷い続けるのだろうか?私的に言うと“魂のさまよい”。
自分は、遠く若い頃(20歳くらいの頃)、さ迷い続けていた魂を神様によって拾われた経験がある。
それまでの私は、全てに対して不安で不確かで何事に対しても何かに恐れるような、苦しいまでの感受性が私を苦しめていた。それなりに友達も将来の仕事に対する夢もあったし、親だって健在であったし、何も不自由のない生活のはずだった。しかし何かが私を不安がらせていた。
何が一体不安なのか?私にも分からない。ただ私の不安定な感受性。結局私は、この感受性ゆえに神様を求め、自分がそれまで大切に持ってきた人間的な愛が神様の愛の前に完全に負けてしまったという感じであった。ちょうど孫悟空がお釈迦様の手のひらの中で一生懸命に、よほど世界の果てに来たのだと思い込んでいたのにそうではないことに気がついたように。
我々は、自分勝手に生きているように思うけれど、どうも神様の愛の懐の中で喜んだり、悲しんだりしているようだ。
その事に気がつき始めると、苦労という事が深みの有る経験に、痛い思い出が強い自分に、傷つきやすい感受性がやさしさに、喜びが感謝に、神様の愛とともに時間が変えてくれる。
そうしてそんな自分になれることを信じて自分が自分を待ってあげられるようになる。ちょうど冬の寒さから春を待つように。
それが出き始めた時、自分はまた一つ心が安心できる場所を発見できるようになり、そんな小さな経験の積み重ねが私を人を信頼できる人間へと成長させてくれているようだ。
(2002.2)
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